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彼が彼女を殺すまで
First Story

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第三章 二人は仮初めの幸を得る(6)

 楓は包丁を動かす手を止めると、ふぅと小さくため息を吐く。
 人間の覚悟というものはどれも名ばかりで酷く脆い。
 楓は日姫に嫌われることも覚悟しているつもりだった。だが現にそれが訪れた今の心境はどうだ。まるで心が耐えられていないではないか。
 やはり日姫にとって楓は心許せる相手ではないのだろう。
 それどころか今まで一回たりとも自分に会いに来なかった楓を恨んでいるはずだ。そのくせ楓は日姫の保護者気取りをしているのだから。
 彼女は数年前のことなど憶えてはいまい。
 しかしたとえ日姫が憶えていなくても楓だけは忘れていなかった。
 日姫がまだ軟禁される前、息子たちと共にきた日姫と遊んだことがある。あの頃は日姫も無邪気で底抜けに明るかった。一緒にいた期間は僅かではあったものの、二人で川辺に行ってよく遊んでいたものだ。
 楓の数少ない宝物とも言える思い出。その思い出が今の楓を責め立ててくる。
 何故、その日姫を蔑ろにしていたのかと。
 悔やんでも悔やみきれないとはこのことだ。その上自分の選択は間違っていないとも思っているのだから埒が明かない。
 今の日姫は両親を失い自分の命の価値も見失い、拠り所のない孤独を抱えている。せめて自分がそれを支えてあげたいと思うが、その資格がある人間はきっと自分ではない。
 楓は既に日姫の人生の中で大した役割を持っていないのだ。そしてそのことに不満を持ってはならない。その道を選んだのは紛れもなく自分自身なのだから。
 怠惰を続けていた手を再び動かして野菜を切り刻んでいく。その胸に絡みつく後悔もろとも引きちぎるように。
 すると、その途中で背後から何かの視線を感じた。
 手を止めて振り返った先にいたのは、料理をする楓をじっと見つめてくる日姫の姿だ。
 隅で遠慮しがちにこそこそとこちらの動向を窺っている。それはまるで、初めて家にやってきた小動物がご主人様を警戒しているかのよう。
 楓は思わず笑ってしまった。
 それを見て警戒が緩んだのか、日姫が怖ず怖ずと楓に近づいてきた。
 少しでも日姫との距離が縮まったのかもしれないが、かといって日姫が何か喋りかけてくるわけではない。楓としてもどう接すればいいか分からなくなり、さてどうしたものかと頭を悩ませる。
「……料理をやってみたことは?」
 結局そんな言葉しか掛けられない自分に辟易としたが、思ったより日姫はそこに興味を示してくれたらしい。
 楓の顔を凝視した後に軽く首を横に振る。日姫が住んでいた実家は使用人も大勢いるので、日姫が料理をする機会というのはなかったのだろう。
「やってみますか?」
 そう言ってみると、意外なことに日姫は首を縦に振った。
 そもそも包丁も触ったことがないかもしれない子供がいきなりうまく切れるわけもないが、肝心なのは出来映えよりもやってみたという経験を培えるかどうかだ。それに怪我をされても困るので丁寧にさせなくてはならない。
 日姫に包丁を握らせると、楓がお手本を見せつつ慎重にやらせていく。最初は戸惑ってうまく切れていなかったが、やっていく内に上手に切れるようになっていった。
 楓が一々指南せずとも日姫一人で切れるようになっていくのを見て、思わず口元を緩めてしまう。
 こんな光景は二度と見られないと思っていた。
「私を恨んでいますか?」
 日姫の手が止まる。どうやら野菜は全て切り終わったらしく、包丁をまな板の上に置くと日姫がこちらを振り返った。
 肯定か否定かどちらかの返答があるのかと思えば、日姫は何も言わずに自らのポケットに手を突っ込ませる。
 そこから出てきたのは小さな巾着袋。
 日姫がそれを開け中身を自分の掌に落とすと、ジャラジャラ、とした音が鳴った。
 何の変哲もない、ただの石ころばかりだった。
 楓もそれが何なのか分からず首を傾げかけるが、そこでふと気がついてしまう。
「それをずっと持っていたの……?」
 それは本当に無価値に等しい石。外を歩けばいくらでも見つかるものだが、楓には一つだけ心当たりがあったのだ。
 かつて日姫と遊んだとき、二人はよく川辺に行っていた。そのとき日姫はしばらく楓と会えなくなることが嫌だと泣き喚いていたりしたのだ。
 そのときに楓が持たせたのがその石だった。川辺に落ちていただけの、持っていても仕様がない石ころだ。それを二人で遊んだ思い出として持ち帰らせたことがある。
 それは泣きやませるための方便だったとも言える。現に楓もその石の存在は見せられるまで忘れていたのだから。
 とっくに捨てていたっておかしくないものなのだ。だと言うのに、そんなものを未だに持っていることが先ほどの楓の質問を如実に否定していることになる。
 日姫はその石の束をぎゅっと握り締めた。そして、楓の前で初めて口を開く。
「どうして会いに来てくれなかった?」
 責めているのではない。それはただ駄々をこねているように。
「父上たちが遊んでくれなくたって、私はいつも読書をして孤独を紛らわせていた。でも、どうしても耐えきれなくなったときはこの石たちを見てたんだ。いつもいつも……この石を見てあの頃を思い出してた」
 かけたい言葉がたくさんあるのに何も言えない自分の口を呪った。すぐ目の前にあれだけ渇望していた最愛の孫がいるというのに。
「ずっと待ってた……。私から行けなくても会いに来てくれると信じてた。何日経っても何ヶ月経っても何年経っても来てくれると思ってた……っ!」
 こんなにも孫が声を震わせて、目を潤わせて、楓に思いをぶちまけているというのに。
「おばあちゃん」
 自分はそれに応えられるほど強い人間じゃなかったのだ。
「お父さんとお母さんが死んじゃった」
 涙は人の気持ちなどお構いなしに流れてしまう。たとえどんなに気丈に振る舞っても強気でいても、一度流れ出した涙は治まることを知らない。
「私、一人になっちゃったんだ……っ!」
 楓が日姫を思い切り抱きしめる。
 どんな言葉を並べても楓のそれは言い訳にしかならないし、日姫の心を救うことなど到底できはしない。
「ごめんね、ごめんね……!」
 だから楓はこの小さな体を力強く抱擁することしかできない。会いたい抱き寄せたいと強く焦がれ続けてきたこの体を。
 人生とは皮肉なものだ。
 日姫を抱き寄せられて望みが叶ったはずなのに、楓の胸は痛みしか覚えないのだから。

          *          *          *

 鏡也と理恵は遠くからひっそりと日姫たちを眺めていた。
「良かったですね日姫ちゃん。打ち解けたみたいですよ」
 今の日姫たちは素直に良かったと言えるような心境ではないと思うが、確かにわだかまりがなくなった点については結構なことだ。
 二人の問題について鏡也たちが関わっても何の益にもならない。二人にしか分からないことがあるのだろうし、そこに他人がずかずかと土足で踏み行っても迷惑なだけだからだ。やはりこういうことは本人たちだけで解決するべきなのである。
「まぁ、面倒事が一つ片付いたし助かったな」
「あれ、鏡也さん案外嬉しそうですね」
 理恵がにやりと口元をつり上げて鏡也の顔を覗き込む。
「考えるだけ無駄とか言ってたくせに、実は結構気にしてたんじゃないですか?」
「馬鹿か。俺があのガキを気にしてどうする」
「どうだか。今朝の煙草の件だって日姫ちゃんのためでしょうし、気にするなっていうのは当人たちに任せた方が良いっていう意味だったんじゃないかと」
「……勝手にそう思ってろっ」
「あ〜、照れてんじゃないですかぁ。図星でしたか?」
 鏡也は理恵を相手にしないでソファの上で横になった。自分が誰かを気に掛けたり心配したりすることなどあり得ないことだ。
 その相手が日姫ともなれば尚更。
 日姫が祖母と打ち解けようが理恵がそれに安心しようが、鏡也には全く関係ないのだ。
 いずれあの少女を殺す、自分には。



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